私が小学校に入学した頃、なんで家(うち)のおっ母さんは字を教えてくれないのかと、そんな疑問を持っていたよ。
しかしおっ母さんは私生児として生まれ、小さい時から余所(よそ)の家へ子守女に出され、小学校にも行かせてもらえず、続いて女中奉公をし、さらに若くして半身不随になるなどで、勉強どころではなかったんだな。
私は社会人となったずっと後になって、おっ母さんが読み書きできない理由を知るにつけ、おっ母さんは私に一字も教えることができない我が身の無学を、どれほど嘆(なげ)いただろうかと思ううちに、
——そうだ、私が代わりに大学まで行って、おっ母さんの分まで勉強してやろう——。
そんな夢を描き念願してきたよ。
それでも仕事と家庭の関係で、中々実現できなかったが、いよいよ還暦定年退職を好機ととらえ、中卒の無学を顧みず、京都のB大学で入学資格を取得して、やっとピッカピカどころか錆(さび)さびの大学一回生になれたのが、晩学六十三歳だったよ。
それからの四年間、おっ母さんと二人連れの心境でおっ母さんの分までと、懸命に学習し、おっ母さんが彼(あ)の世から私の背中を押し続けてくれたのか、お陰様で無事卒業式を迎えれたのが、なんとおっ母さんが旅立ってから四十年目で、私は奇(き)しくも、おっ母さんの享年(きょうねん)と同じ六十七歳だったよ。
卒業式では、若い学生達に申し訳なくも恥ずかしくも、学長賞を戴いたが、これはおっ母さんが彼の世からくれた褒美だと思えて、目頭熱くおっ母さんの顔が浮かんだよ。
思えばおっ母さんは、小学生の私に一字や二字教えることよりもっと大事な、人生は生涯学習であることを教えてくれたよ。
ありがとう、おっ母さん。