母さんが大嫌いでした。
学校の参観日といえば、腐った藁しか想像できないような柄の長袖ワンピースに下駄履き。顔は赤銅色。友だちのお母さんは皆、若くてきれえなのに……。だから、学校からのプリントは母さんに見せませんでした。
戦後。満州からの引揚者で、夫を亡くし、一人で四人の子供を育て、一年三百六十五日牛を追い、鍬(くわ)を振りあげ、鎌を握らなければ食べていけなかったことなど、私の知ったこっちゃなかったんです。百姓する母さんなんて、私には零点以下の母さんだったんです。
そんな母さんと二人だけの夕飯のとき、母さんがぼそり言ったことがありますね。
「けえでも、ねえちゃんときゃあ(一番うえの姉)若えお母さんぢゃ言われたもんで。あんたぁ三十八歳でできた子ぢゃけえ」と。
が、私はテレビのひょっこりひょうたん島に見入ったフリをして、目を合わせようとしませんでした。母さんはそのことを二度口にして、やめてしまいましたね。
——目を閉じると瞼の裏に、まん中で分けた髪を後ろで束ね、器用に団子をこしらえていた母さんがいます。母さんは、そのあたまを母さん一流のおしゃれと決めこんで参観日に来てくれたんだとおもうと、胸が詰まります。服だって、母さんにとっては一張羅。
女手ひとつで、子供たち全員が高校を卒業。姉は短大まで進学。みんな母さんの犠牲のうえに立った幸せだったんですね。そんなことが、五十路近くなってやっと分かりかけ「母さんありがとうねえ」と電話したら「父ちゃんは死んでしまうし、子供ぁようけえおるしで、どの子んも、なあんもようしちゃらんかった」とすまなさそうに言った後、「このへんはまだ桜が咲(せ)えとる。あんた、いっぺん見ん帰っておいでえ」と誘ってくれましたね。
四月の十一日でした。一晩泊まるつもりで準備をしていた矢先のことです。母さんがくも膜下出血で倒れたのは。八十六歳でした。