「早よう行け、逃げるんや!」
昭和20年6月の神戸空襲で逃げ込んでいた「防空壕」が、激しい焼夷(しょうい)弾攻撃で崩れ始めた時、私を外へ強く押し出した時の恐い顔を今も覚えています。母は私を助けるために「生き埋め」になってしまったのです。
あの時どんな思いであの手を離したのだろうか。
そこには、わが子を助けたい思いと、放したくない子への絶ち難い気持ちがあったのではないかと思うと、私は今でも胸が締め付けられます。
お母さん、あの時10歳だったあなたの子供は今75歳、お母さんが亡くなった年をはるかに超えて生きています。
戦争孤児となった私は、同じ浮浪児の仲間達と、戦後の荒れ果てた町で、周囲の人から野良犬のように追われ、バイキンと呼ばれながら、そこに「存在する」ことが罪であるような社会を、ただ「生きる」ためにだけ生きてきました。それはまさに、野良犬にふさわしい「拾うか、もらうか、盗って食うか」の生きざまでした。
戦争孤児施設を出て社会に放り出されてからも、誰からの援助もなく“たった一人で”生きていくのは、想像を絶する厳しいものでした。
孤児になった10歳から27歳で教師として自立できるまでの17年間、私は「生きていて良かった」と思えるようなことは殆(ほとん)どありませんでした。
何度も死を考えながらも、「とことん生きてやる」という思いにさせてくれたのは、散っていった仲間や、焼き殺された父親、生き埋めになったままの母の無念な思いに対して、“母さん、ここまで生きてきたよ”と、自分が「生きてきた証し」を残したかったからです。
“ありがとうお母さん、ここまで生きたよ”
“あなたはどこにいますか。まだあの防空壕の中ですか”
書いても届かぬ母への手紙です。