母ちゃん、ありがとう。母ちゃんが30歳の時、生まれた私もいつの間にか91歳となってしまったのよ。皆の前では、母さんとか母とか言っているが、私は母ちゃんと呼びたいの。
お父さんとの結婚生活4年間。私が3歳の時にお父さんの死、そしてお父さんの母親を迎えての女3人暮らし。母さん、苦労したね。
香取の伯母さんが、母さんに言った一言。
「昭ちゃんはお父さんがいないんだから、学校を卒業したら、すぐにお金をもらえる学校に入れたらいいね」
あの一言。母さんの返事を涙を流しながら寝床の中で聞いたよ。
「どんな苦労をしても、私は昭子の希望する学校に入れてやりたいと思います」
確かに父には恩給もつかず、その上、姑を迎えての暮らし。昼間は娘たちに裁縫を教え、夜は遅くまで賃仕事をしていたね。忙しい母さんなのに、小学生時代の父兄会にはいつも来てくれたね。とてもうれしかったよ。
女学校を無事に卒業し、教員の資格をとり教員生活スタートに立った時の母さんのあの笑顔、今でも忘れられないよ。
太平洋戦争で水戸の我が家は全焼。家も家財もない母さんと2人だけの生活。いや、私が働いて母を守る。私の大切な母だもの。
戦後の24年、夫を三橋家に迎えた時の母さんの笑顔は最高だったよ。息子が1人増えたように。よそ様は夫が母の息子で私が嫁であると思っているようね。母さんの細かな心遣い、ありがとう。感謝します。
夫を迎え幸せな生活の中に突然の出来事は母さんの病死。昭和36年1ヶ月の入院生活。新居を建てこれからの幸せを願っての時だっただけに、悲しさ以上に悔しかったね。
母さん、守ちゃん(私の夫)も平成15年、母さんのもとに行って甘えていることと思います。卓上の写真に手を合わせ私も母さんや亡夫との想い出を大切に幸せに過ごしますね。