六十八歳。とうとうあなたの歳まで、あと二年と迫りました。この歳は、あなたが病巣の摘出手術に臨んだ歳でもありますね。
一般的に、母子の関係は神秘的です。生命を得たその日から、子は母の心音を揺り籠として育つからでしょう。たとえ他界しようとも、母は下界のわが子に、心音リズムを送り続けている気がします。
ゆえに母の存在は、子どもにとっての“絶対”です。勿論、僕にとってのあなたも——。
つばめがヒナに餌を与えるその姿で、僕はあなたを想い起こします。カルガモが子連れで道路を渡る姿は、僕の手をしっかり握り、上京時の国道を急いで渡ったあの姿でした。自立を促そうとヒナの廻りを激しく飛び交うシジュウガラの母。それを見たとき、高校時代のあの一件を思い出したものでした。
停学処分を受けた僕は、貯金を叩(はた)いて連日映画館に通いました。その五日目、あなたは畳に一枚の紙幣を置きましたね。
「そんなに遊びたいのなら、これで遊んでいらっしゃい」
昭和三十四年のこと。畳の上の一万円札は、前年の暮れに日本国が初めて発行した最高額紙幣でした。父の当時の給与は九千円。あなたはあの紙幣をどう工面したのでしょう。小銭のすべてを掻き集め、新札交換したのでしょうね。僕はその日に改心し、復学許可を待つことにしました。復学は、あなたの戒めの賜物です。
あと二年で、僕はあなたに追い付きます。命日から一日ごとに、僕はあなたを超えるのです。ただし、情け無くも歳の嵩(かさ)だけ。
あなたのなさったことを、僕は子どもに出来たでしょうか? あなたに貰った愛情を、僕は子どもに分けることが出来たでしょうか?
すでに孫三人となった僕ですが、多分これからも、僕はあなたを超えられません。そんな僕に出来ること。それは、あなたの教えに背かないで生きること。それだけは約束します。