大学受験を終えて帰宅すると、父さんはいませんでした。膵臓炎(すいぞうえん)で「痛い痛い」と部屋中を転げ回ったと、母さんが教えてくれました。
病室に入ると父さんは、「テストどうだった」と聞きました。「大丈夫」「そうか、治ったら働く。銭(ゼン)こ心配すんな」。その言葉が僕の胸を刺しました。旧国鉄の線路工夫を退職し、病身の六十三歳の父さんが働けるのか。進学していいのか。迷いに迷いました。
二ヵ月後に退院した父さんは、学生寮に訪ねて来て「七月から働きに行く。銭(ゼン)こは心配すんな」と、またお金のことを言いました。白い頭に頬がこけてげっそりし、盛り上がっていたいかつい肩がありませんでした。
バラック建ての飯場(はんば)で寝起きして、線路の敷設(ふせつ)作業の力仕事をするのか。レールを持つのは無理な気がしました。しかし、仕事の中味を聞きませんでした。正しくは、聞けなかったのです。事実を知るのが恐かったのです。
病み上がりで、ちょっと肩を押すと倒れそうな父さんが働いていると思うと、やり切れませんでした。コンパでも「歳老いた親が働いているのに、お前は酒を飲んでいていいのか。自分の立場をわきまえろ」と自責の念にかられました。騒ぐ気にはなれず、心のどこかがいつも冷めていました。
父さんは「お前が卒業するまで働く」が口癖でした。僕はこの言葉が嫌いでした。父さんは僕のために無理して働いている気がして、居たたまれなかったのです。
僕が卒業して一年後、父さんはまるで力尽きたように果てました。多分最後に残った力をふり絞って働いたんですね。子供だった僕は、親がしてくれることは当然と甘え、お礼など考えもしませんでした。ところが、歳をとるにつれて、感謝の気持ちを伝えなかったことが、心の重荷になってきたのです。
遅れてすみませんが、お礼を言います。「学校を出してくれてありがとうございます」。
僕、気持ちが少し軽くなりました。