お父さんが42才の若さで、病気で亡くなってからもう60年余りの年月が流れました。僕は15才でした。妹も弟もいました。お母さんは39才でしたが女手ひとつで私達を育ててくれました。そして88才まで長生きしてお父さんの側へ行きました。
最近、やっと気づいたことがあります。お父さんの命を縮めたのはこの僕では無かったかと。戦争が残した不発爆弾で僕は両目、両手を失いました。小学2年生でした。5才の弟は即死でした。そんな事故から8年後にお父さんは死にきれない思いを残しつつ旅立たねばならなかったのですから。
お母さんは苦しい時、悲しい時にお父さんのことを口にすることはありませんでした。しかし嬉しい時、大きな喜びを感じた時などには「お父さんに見せてやりたかねぇ」と言って声を詰まらせることがありました。それは僕の人生の中で三度ありました。
最初は20才の時でした。13年間も学校に行けなかった僕が盲学校の中学2年生として福岡から大阪に出発する日のことです。詰襟の学生服に身を包み、夜行列車で母と二人、応援してくれる人達に見送られての上阪でした。
二度目は34才になる僕が、盲学校の社会科教員として採用され、たくさんの人に祝賀会を開いてもらった会場でのことでした。盲学校から大学に進みようやく手にした教職の道でした。
そして三度目は35才の時、娘が生まれ、この僕が「人の親」となった時のことです。59才のお母さんが孫の裕美子と僕を見比べながら呟いていました。「お父さんに見せてやりたかねぇ」。
お母さんの声は、耳にも心にも残っています。僕も喜寿の祝いをしてもらう年齢になりました。たまにお父さんの夢を見ることがあります。嬉しさと懐かしさを感じる夢です。