父へ 50代 山梨県 第3回 銀賞

沈丁花(じんちょうげ)
入倉 文子 様 57歳

 お父さん、あの日のこと覚えていますか。早春の日が静かに暮れようとする頃、あなたはうとうと眠っているように見えました。

「又、明日来るからね」

小さく声をかけ病室を出ようとした時、お父さんはふっと目を開け、はっきりした声で言いました。

「もう来んでいい」

私は、はっと胸をつかれ、すぐには言葉が出ませんでした。

「なんで……どうしてそんな寂しいこと言うのよ」

「お前も仕事と家のことで大変ずら。もう来んでもいいよ」

私は疲れて、何もかも捨てて逃げ出したいような日が続いていた。そんな自分が情けなくて、苦しかった。

脳梗塞で寝ついて三ヶ月。認知症が進んで、自分のいる場所も季節もわからず、お母さんがずっと前に死んだ事も忘れてしまっていたお父さん。でも私の気持ち、全部見抜いていたんだね。

 

私は何も言えず、お父さんの骨張った横顔をただ見つめていました。

外に出ると薄闇の中に沈丁花の香りが濃く漂い、涙があふれてきて困りました。

その日がこの世でお父さんと話した最後の日となりました。

 

今日は朝から雨。不思議なことに、沈丁花は雨の日に強く香るのです。そのひんやりとした甘い香りが、お父さんを思い出させます。

「もう来んでいい」

優しい声が聞こえてきます。

どんなに衰えても、お父さんの心の奥底の泉は、枯れてはいなかったのですね。

あの日からもう六年。来なくていいと言われても、もう一度お父さんに会いたい。そして伝えたいのです。

「最後まで愛してくれてありがとう」と。

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