お父さん。青森駅の、たった十数秒の出会いでしたね。東京からの夜行列車が青森駅に着いて、連絡船に乗るために桟橋に向かうあの通路です。今はもうありません。45年前の3月の20日過ぎ、私は地元の国立大学に落ちて、東京での受験にも失敗し、浪人生活を覚悟し、落ち込んでいました。函館行きの連絡船に急ぐ人の波の向こうに、私が見たのは、通路の端に立っているお父さんでした。なぜあなたがそこに居るのかわかりませんでした、すぐには。あなたは何も言いませんでした。ただ私を確認しただけでした。私がどの連絡船に乗りどの列車に乗り小樽へ帰るかは、国鉄職員のあなたは知っていました。家族割引という福利制度がありましたね。仕事を休みそこで待っていてくれてたのですね。ずっと。
戦争で思ったような教育が受けられなかった。貧しくておじさんのところから工業高校に通ったのでしたね。でもその頃の時代が、一番楽しかったと言っていましたね。息子の私には、希望する教育を大学をと、母と話していたのを聞いています。でも、貧しかったから、「地元の公立か、東京の国立なら寮に入ってくれ、私立は諦めてくれ」辛そうにポツリと言ったことも良く覚えています。
そのあなたの大きな愛を想いを知ったのは、結婚してわが子を抱いてからでした。どれだけあの時私のことを心配して、桟橋への寒い通路で待っていてくれたのかを。
あなたは、90歳で亡くなりました。8ヵ月の介護の末あっけない最期でした。
「何にも遺してやれなくて、ごめんな」それが最後の言葉でした。
無口で優しいあなたに、最後まであのときのことを青森駅のことを言えませんでした。
四十九日の納骨のときに、やっと「お父さん、新幹線が来ます。曾孫が生まれますよ。ありがとう」と言えました。聞こえましたか。
「お父さんごめんね。本当にありがとう」