私は“先天性脳性麻痺”を宿命に、五十八年の長い歳月を生きて来ました。この長い歳月は先天的に障害を抱えて生まれた私にとって奇跡に近く、感慨深く様々な出来事が思い出されます。
生まれて十三年間、実の親以上の愛情を注いでくれた叔母の存在であります。
叔母は、手足が不自由な重度の障害を持つ私を、大きな乳母車に乗せ、散歩や買い物に連れ出し、近所の子供社会に馴染むように仕向けていったのです。叔母が押す足代わりの乳母車は、やがて近所の子供たちの手によって押し回されていき、幼い無垢な遊びに興じて歓声を上げていました。障害児のイメージが払拭されたかに思われました。
そこで叔母は、
「この子を地域の子が通う小学校に入学させて……」
と市の教育委員会に、日参し懇願し続けたのです。その甲斐あって、常時、叔母の付き添いが条件でしたが、就学猶予によって三年遅れで健常児の通う普通の小学校に入学が許可されました。
叔母は悔し涙の中から、これからも続くであろういじめや差別に、
「伸ちゃん、負けたらあかんよ。海のような大きな心を持って生きていかなダメなのよ」
と、優しく諭し、余程悔しかったのか、
「勉強をしっかり身につけて、立派な大人になって見返すくらいの気持ちで頑張らなあかんよ」
と、その胸の内を吐露していました。いつも前向きで真摯であれ。不自由さは体であり心は健全であれと、いつも言い聞かせていました。叔母は、手の掛かる私の世話に明け暮れ化粧もせず旅行に行くこともなく、全てを私のために尽くして他界していった。命の限り尽くしてくれました。百日紅(さるすべり)の淡いピンクの花が開くお盆の空を仰ぎ見て、愛する叔母を想い出すのです。どうか魂よ、安らかに……。