夫へ 80代 山形県 第2回 入賞

あの約束は無しにして
千葉 千代 様 82歳

 今年も私の好きな秋がめぐって参りました。秋晴れの高い空に浮かぶ雲を見ていると、あなたの声が降ってくるような気がします。

 九月十五日、あなたの誕生日に合わせたように、大事に育てた菊の花が咲いてくれたので仏壇の大きな花瓶にどさっと飾りましたよ。見ててくれたでしょう?

 今、あなたはどんな所で何をしているのでしょうか。

「俺が先に行っていい場所を取っておくから、お前はゆっくり来いよ」と、冗談めかしに言うあなたに、

「ありがとうよ。でも私は方向音痴だから道しるべを立てておいてよ。約束ですよ」

 こんな会話が二、三度あったように覚えてますが、思い出す度、胸が傷むのです。だって、あなたは手足が不自由になっていたのに、「道しるべを立てて」などと心ない我ままを言ってしまったのですもの。

 思えばあなたは、どんな場面でも私も好きなもの、楽な場所、いわゆる居心地のいい場を設定し黙って与えてくれていましたものね。それとも知らず、ずっと甘えて過ごした長い年月を大切に思うと共に、自分の至らなさに気付かされてがっくりと滅入っています。

 だから「道しるべ」の約束は無しにして、ゆっくりと日向ぼっこでもしていて下さい。

 幸い私は卯年生まれです。あなたの傍に行ける日には、うさぎに変身し長い耳を研ぎ澄まし、あなたの声を頼りに一目散に駆けつけます。その日を楽しみに太極拳の練習を続け足腰を鍛えることにします。

 あなたの好きなコーヒーを淹れました。この匂いが届きますようと念じながら筆を擱きます。

さようなら

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