お母さん、とってもきれいだったよ。藤色の着物で、大好きな花に囲まれ、趣味で書いていた習字をまとった、最後の姿が今も目の中にあります。孫6人の手で、一枚の白布をかけてもらったときは、結んだ唇がちょっと微笑んだような気がしました。
93歳までほとんど病気もしたことがなかったのに、1年9か月のベッド生活は想定外だったね。「何もできなくなって、寝ているなんていやだよう」と常々言っていたのに、看護師の私は、ただ残っている命に任せてしまう思いにどうしてもなれず、経管栄養を選択した。ごめんね、それにしてもそれからの1年近くの日々は、管だらけの更につらい朝、昼、晩だったね。でもね、お母さん。坦々と食道に流れ落ちるその栄養のおかげで、最後の日までお母さんと尊い時間を過ごし、素敵なさよならをすることが出来たと思っているよ。
退職して半年間、毎日のように片道40キロを往復して、髪を梳(と)かし、体に触れ、その確かな目とたくさんの話をすることができた。お母さんもそんな娘の背中を、半分の身体となった骨だらけの手で、何度も何度も撫でてくれたね。そして私はその度に、61年間の思いを込めて、何回も、何回も「ありがとう」の言葉を、生きてるお母さんに伝えることが出来たんだもの。言葉も出ないお母さんが向けるその時の真っ直ぐな目は、今も私を強く見つめてくれるよ。
どんな時もいつも明るく、大声で笑うお母さんだった。山間に生まれ、町に嫁ぎ、病弱な夫を支えながら、米を作り、子供を育て、趣味を楽しみ、友を愛し、時々、自分の人生の課題に向き合いながら、ほんとうに頑張ったね。子供は誰もがそう思うのだろうけれど、私は世界で一番の母親に出会えたと思っているよ。
大好きな花の中で、とびっきりの笑顔の写真が皆にさよならしたあの日からもうすぐ1年、尊き人はもういないけれど、口癖だった「頑張れし、気を付けろし」の声援を受けて、これからも自分の人生を頑張って生きていくね。そしてまた、いつの日か会えた時は、また私のお母さんとして、生きてきた娘の背中を思い切り撫でてください。
指切りげんまんだよ、お母さん。