祖母へ 40代 兵庫県 第8回 入賞

私のマザーテレサ
本田 よう子 様 48歳

 私が四歳半のとき母が他界し、途中継母との生活もあったが、19歳で一人暮らしをするまでの大半を祖母に育ててもらった。

団地住まいで質素な生活だった。家族四人のその日の夕食と次の日のお弁当のおかず、朝食の食パンを1000円で収めるという暮らしぶりだった。そんな中、祖母とスーパーの帰りに、二人でこっそり食べたお好み焼きや、お豆腐屋さんのわらびもちは、格別幸せな時間だった。祖母が好きだったネスカフェのゴールドラベルのインスタントコーヒーも一緒に飲むようになり、祖母と過ごす心穏やかな時間のお蔭で、母がいない寂しさや不安を感じることはほとんどなかった。

修学旅行の朝、外まで見送りに出てくれ、「おおきなったね。お母さんに見せてあげたい」と、涙ぐみながら背中をそっと撫でてくれた。そのときの祖母の骨ばった手から、今まで注いでもらっていた愛の温度を直に感じた。泣きそうになりながら、後ろ手で手を振り、その場から逃げるように学校へ向かった。

はっきりと一度、そんな祖母を傷つけてしまったことがある。家庭科実習で忘れ物をし、祖母に届けてもらった時だ。私と同じように、忘れ物をしたクラスメイト二人と、校門で待っていた。息を切らしながら届けてくれた祖母から、忘れ物のお米を受け取ると、

「はよ帰って」

と、祖母に背を向けてしまった。この時初めて、今まで「母がいない」ということを平気そうにしていた自分に気づいた。クラスメイトに家庭のことを知られたくなかった。祖母には謝ることも出来ず、ささくれのままだ。

大人になって見返した、保育園のアルバムの中に、芋掘りを一緒にしてくれている祖母を見つけた。母が亡くなってすぐのようである。一張羅(いっちょうら)のベージュのスーツを着た祖母の優しく包み込むような微笑みがあった。

私にとって祖母は母だった。そしてマザーテレサのような存在、愛そのものであった。

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