母ちゃん、天国の父ちゃんのもとに旅立ち9年になりますね。19才で封建的な家に嫁ぎ、思い出の中の母ちゃんは朝5時にかまどの火をおこし御飯を炊き、夜中にトイレに起きるといつも店の隅の裸電球の下で背を丸くして内職の編物をしている背をみ、私は大人になりたくないとずっと思ってきました。それなのに小学3年の遠足の前の日、母にひどい言葉を掛けてしまった私でした。
昭和30年頃の日本は貧しく食っていくだけでも大変な時代でした。学校で仲よしのA子ちゃんが「明日着ていく赤いジャンパースカートを買ってもらった」と。私は父の古い上着を利用して作った母の手作りのゴムの入ったスカートをはいていく様になっていたので、悲しくなり、急いで家に帰りました。母は日銭かせぎの為に13坪の小さな家の隅で、農家の人相手の雑貨の商いをしていたのでした。
内職の編物をしながら店番をしている母に「A子ちゃん、赤いスカートを買ってもらったんやと、私にも買ってよ」とやんちゃを言った。その夜の事でした。夜中トイレにいくと母が赤い毛糸で可愛いセーターを一生懸命編んでいる背をみた。いつもと違い少しでも沢山編める様にと真剣に編み棒を動かしていく手は魔法を使っているかの様に編み込み模様のセーターができ上がっていました。
朝、枕元に赤い素敵なセーターが、ゴム入りスカートの横に並べてあるのをみてとても嬉しかった。母は夜鍋をして編んでくれたのでした。学校に、にこにこして走っていくと、先生が入口の所で「節ちゃん、そんな素敵なセーターはどこの店にも売ってないよ」と。
69才の私、バァちゃんになっても母の事を思う時、淋しい心になります。そんな時、必ず
”かあさんの唄を“口ずさみます、”母さんが夜鍋をして手袋編んでくれた“。孫が「バァちゃんその唄好きなんか」と。私は孫と一緒に天国に向かってもう1回歌いました。お月様が2人をやさしくみていてくれました。