「退院したよ」
「北海道サ来い。おずさん、お金やっから」
早くに親をなくし、祖母宅で育った私には、伯父さんからのお金がまさに命綱でした。だからこそ卒業後は自力で生活し、皆を安心させたかったのですが……。
予備校講師の仕事を引き受け過ぎて腰痛になり、三か月の入院を告げられました。ようやく退院したものの、仕事のあてがないので途方に暮れていたのです。そんな胸中を察したかの様な、あの「北海道サ」でした。
伯父さんは、空港ロビーの柱の横で、作業着のまま、煤で汚れた封筒を握りしめ、立っていましたね。
「ほれ、持ってげ。えっから、もう泣ぐな」
情けなくて、まともに顔を見られませんでした。
帰洛した翌日、何と元の教え子が、年賀状の住所を頼りに、私を訪ねて来てくれたのです。
「私は先生の生徒だから」と。
伯父さんのお金で問題集を揃え、炬燵を二人で囲んだのが、今の塾の始まりです。その塾が、今年でもう三十年。早いですね。
塾が十五歳を迎えた正月。伯父さんを招き記念の食事会を開こうと思い電話したら、人前は恥ずかしいからイヤ、写真を送ってくれたらいい、と……。
その二週間後、クモ膜下出血で亡くなるなんて、誰が想像できたでしょう。葬儀から帰った翌朝、宅配便が届きました。送り主には伯父さんの名が、発送日には亡くなる前日が、記してあります。
玄関に座り込み、震える手で紐を解きました。写真を入れて送り返すための額、金銀糸と箔とで扇を織りなした帯……。それらが丸めた新聞紙の中から、静かに現れました。何も構わなかった伯父さんのこと、あの寒空の下、いつもの作業着のまま街へ出かけ、店の人の視線も構わずに、懸命に選んでくれたに違いありません。
帯に顔を埋め、ただただ泣きました。
私、五年前には脳動脈瘤の開頭手術で、一年前には軽い脳梗塞で、入院しました。でも、伯父さんが守ってくれたお蔭で、二回とも後遺症なしで、塾を再開できました。
これからは恩返しの人生です。
伯父さん、今後も応援よろしくネ。