父へ 60代 岐阜県 第3回 佳作

天国三丁目の父ちゃんへ
成瀬 富貴子 様 68歳

 「俺は母親の顔を知らない」

幼くして母を亡くした父ちゃんは、人一倍寂しがりやだったね。その言葉も若い頃はそれ程重みは無かった。山奥の貧しく子沢山のあばら家で育ったんだね。学校へ弁当を持参できず弁当の時間は外で遊んでいたと聞いた時は、私も人の母、どんなにひもじかっただろうと胸が痛んだよ。もし、その頃にタイムスリップ出来たらおにぎり一つでも届けたいとどれだけ思ったことか……。

先日、古いアルバムから父ちゃんの色褪せた名刺が出てきたの。職は製材所・A製紙専属チップ工場とありました。時々、「俺の学歴は純情(尋常)小学校」と言って笑わせたね。

チップの会社には毎年大卒が入り神妙に父の見習をするが一年もすると、父を君付けで呼ぶようになるという。小男・色黒・田舎者・知識の無さなど宴会の肴になったという。そんな夜は深酒をして、わしは至極残念じゃ……と拳で涙を拭っていた姿が今も目に焼き付いています。昭和初期、小糠三合有れば婿に行くなと言われた時代に婿に来てくれた父ちゃん。種々の差別や蔑視に耐えに耐えた五十七年の生涯だったんだね。だから、「どこへ行っても通用する人間になれ」と言い続けたんだね。五人の子ども達には、同じ苦しみ惨めさは味あわせたくないと思ったんだね。

女の子に箪笥長持を持たせても、天災に遭(あ)ったら残らない。身に付けてやることが大事だと、姉と私にもそれぞれに合った最高の教育を受けさせてくれましたね。

あの頃は余裕の無い生活だったね。豆腐の味噌汁は父ちゃんの好物。その豆腐を買えないこともあったと聞いたよ。そんな中で、借金してまで大学に出す父を村人は「子どもを何様にするつもりだ」と言ったね。そんな時あなたは「家の子は少し力が足りないので下駄を履かせて世の中へ出すだけや」と言って歩いたと聞いたよ。随分後になってこの話を聞き、流石私達の父ちゃんと感心したよ。

お陰で、誰も偉い人にはならなかったけれど、父ちゃんの優しさを胸に、心豊かに暮らしているよ。父ちゃん、大好き。忘れたことは無いよ。ほんとうにありがとう。

 

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