聡子、お前だけはまだ子どものままの姿でいるのか。父さんは六十九歳で亡くなり、母さんは三年前に亡くなったよ。八十三歳だった。あの世で、父さんも母さんも、お前に逢うんだと言っていたけど、判ったか。
聡子、どうして一人で溜池(ためいけ)なんかに行ったんだ。あの日、父さんは日雇いに朝早くから家を出た。母さんは野良仕事の手伝いで、昼飯に塩辛い握り飯を置いて出かけた。お前の面倒を見るのは、僕の仕事だと母さんに言われた。虫採りもしたし、かくれんぼもしたよな。汗かきのお前は、お腹いっぱい井戸水を飲んで、握り飯も食べずに眠ってしまった。
「にいちゃん、にいちゃん」と甘えるお前に添寝したぞ。少し、おねしょを漏らしたから、パンツも換えたな。母さんには内緒の約束も守った。お前の刈り取った草のような匂いのする髪を嗅ぎながら、僕はお前と野原を走る夢を見ていた。
夢の中で急にお前がいなくなった。それで僕は目を覚ました。お前が隣りにいないじゃないか。僕は慌てて捜したよ。押入れから天井裏まで。田圃(たんぼ)にも見に行った。どうして溜池に行ったんだ。絶対に行くなと言われた、あの溜池。二人で見た、土手に咲いた花たちは綺麗だったけど、寂しくなって母さんを捜したのか。
お前が溜池に浮かんだとき、十歳の僕は死のうと思ったけど、どうしたら死ねるのか分からなかった。聡子、お前がいなくなって五十年も過ぎたんだぞ。墓碑銘(ぼひめい)にあるお前の名を幾万回も水で洗った。だけど、僕の胸に残る後悔は、決して消えない。お前の熱い遺骨を拾って火傷した親指が、今も痛むんだ。
「にいちゃん、にいちゃん」と呼ぶ、聡子よ。僕はまだまだこの世でお前の分まで生きるぞ、母さんよりも。それがお前への供養なんだ。だけど、待っていてくれ。そして、おじいちゃんになった僕を笑ってくれるな。