父へ 50代 群馬県 第15回 銀賞

一枚の写真
福田 好子 様 56歳

ここに一枚の写真がある。私の結婚式で親族一同で撮った写真。中央には私と夫。左側には夫の両親。右側には私の両親。その周りを囲むように親族が写っている。皆笑顔なのに一人だけ、怒ったような、今にも泣き出しそうな顔をしている。しかも、着ているのは、セーターとズボン。それは私の父だ。

 私の家が他の家と少し違うことに気づいたのは、小学校の中学年の頃だった。先生から配られる給食費の集金袋に、お金を入れてもらえるのは、決まって数日遅れてから。ランドセルは誰かからもらったお下がり。家に電話やストーブがない。時々、学校を通じて裁縫箱など学校で使う道具が支給される等々。何より、私の父が他の家のお父さんと違っていた。父は文盲で、耳が遠かった。母にそのことを尋ねると、父は幼い時かかったはしかによる高熱で耳が遠くなり、知的障害者になってしまったとのことだった。当時は、

障害者に対する認知度は低く、日本の社会福祉制度は「申請主義」であるため、父が障害者手帳を取得したのは、私が大人になってからだ。父の両親は、父のことを不憫に思ったのか、父を小学校にあげなかったそうだ。父と母は見合いで結婚をした。当時は、家と家の話し合いで結婚が決められることは、珍しくなかったそうだ。

 障害のある父は、低い賃金で土木作業員としてコツコツと働き、その収入で父と母、兄と私の四人家族は、貧しいながらも生活することができた。そんな中でも、社交的な父は近所の人へ話しかけたり、自転車で色々な所へ出かけ、野菜や衣服などをもらってきたりすることもあった。

 物心がつき、成長した私は、いつしか自分の暮らしや父のことを恥ずかしく思うようになり、時には強い口調で「そんなに、何でももらってこないで」と言ってしまったこともあった。

 私は奨学金を借りて大学へ行き、子どもの頃からの夢であった教師となった。結婚式の前日父に「お父さん今までありがとう」と伝えたが、父は照れくさそうに笑っただけだった。そして迎えた式当日、タキシードに着替えた父は、穏やかな表情をしていた。

 式が始まると、父が花嫁の父らしく参列者にお酒を振る舞う姿を私はひな壇から見ることができた。お色直しのため退席した私が、再び入場した時、目を疑う光景がそこにあった。父の姿がないのだ。心配する私に兄がそっと、「おやじが出て行ってしまった」と教えてくれた。そのまま式は進み、父母への感謝の手紙を読むタイミングで私服に着替えた父が戻ってきた。後から聞いたことだが、父は式が進むにつれて私が家を出ることを実感し、それが嫌で家に帰ろうとしていたとのことだった。父は障害のため、自分の思いを伝えきれず、衣服を脱ぐことで、娘への気持ちを示したのだと思った。同時に無器用な父からの深い愛情を私は受け取った。

 父が亡くなって二十一年の歳月が流れた。

 今では私は三人の子どもが成人し、あの時の父の年齢に近づいている。幼い頃の私は、何で私ばかりこんな貧乏な家に生まれ、苦労しなければならないのかと憤っていた。しかし、一枚の写真を前にして振り返ると、我が家は確かに他の家とは違っていたが、貧しいながらも、温かいご飯と布団、なによりも笑顔のある家庭であったこと。それは、障害を負いながらも、懸命に働く父のおかげであったことが痛い程よくわかる。今天国の父へ伝えたい。

 「お父さん、たくさんの愛を私や家族に与えてくれてありがとう。

 お父さんのおかけで、私達家族は、笑顔で幸せに暮らしています。お父さんも今まで苦労した分、そちらでのんびりと羽を伸ばして下さい」

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